元和9年(1623年)に将軍職を嫡男家光に譲る。父家康に倣って、引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣い、自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。晩年の寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社統制の徹底を示した。寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年初めに亡くなった。
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家光に対して『徳川実紀』では、「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」との遺言を残している。
徳川家綱(第4代将軍)、徳川綱重、徳川綱吉(第5代将軍)は孫。徳川家宣(第6代将軍)・松平清武は曾孫。徳川家継(第7代将軍)は玄孫にあたる。
法名は台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士。墓所は、東京都港区の一角にあった台徳院霊廟であったが戦災で焼失し、1958年に台徳院霊廟が増上寺本堂近くに移転改築された際、土葬されていた秀忠の遺骸も荼毘に付されて改葬された。尚、この際に秀忠の遺体の調査が行われたが、その遺体は、棺の蓋や地中の小石等の重みにより、その衣服等とともに圧迫されつぶれていた。また、秀忠の血液型はO型であった